学校としてできることを明確にする

個人として、子供達に対してやってあげたいことは無限にある。

だがしかし、学校としてできるかどうかは別である。

このギャップが、教師の働きづらさの大きな要因である。

個人としては、時間も労力もかけてあげたい。

時間も労力も、かければかけるだけ子供達は伸びる。

だからこそ、歯止めをかけねばならない。

誰が?

自分が、である。

本当は、管理職や教育委員会が歯止めをかけるべきだ。

でも、実態としては、自分でやるしかない。

勤務時間内で、限られた予算の中で、その範囲の中でベストを尽くす。

それが「仕事」である。

教師の「仕事」は、無限に広がっていくうちに「趣味化」していく。

「子供達のこんな姿を見たい」

「保護者に見せたい」

「立派な実践を見せたい」

そんな欲望は、際限なく広がっていく。

それらは、確かに子供達のためになる場合が多い。

だがしかし、である。

中堅やベテランになっても、それでいいのか、と問いたい。

若手のうちは、実力がない分を気合いや根性で補うのはどの業界でもあるだろう。

学級担任として横並びで見られる中で、欠けている部分をなんとかして補いたい気持ちは、大事だ。

でもそれを、10年過ぎても20年過ぎてもやっているのは違うだろう。

本来のルールの中で、戦っていくのが正常だ。

勤務時間内に、限られた予算でやっていくのが、ルールのはずだ。

教師が率先してルールを破っていいはずがなかろう。

ルールの中で、戦う。

それをさせてくれない管理職、教育委員会であるならば、自分自身でそういう枠をはめていこう。

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