何でもできる教師にはなれないけれど、「何でもできる教師」でいることが大事だ。
大事なのは、
「何でもできる教師」と思われていることであって、何でもできる必要はない。
ここが、教師の腕の見せ所である。
私の場合、できる・できないがはっきりしている。
小学6年生と比べて、
足は速い。短距離では負けない。長距離は学年ベスト5の子と同じくらい。
だからこそ、積極的に走る。鬼ごっこもやるし、シャトルランも一緒に走る。
その一方で、できないことが多い。
水泳は苦手。クロール25mはなんとか。平泳ぎは25mいけるかどうか…。
器械運動は全然ダメ。逆上がりと跳び箱の開脚跳びはできるが…。
だから、子供達の前では、一切やらない。
上手な子に、手本をさせる。
それでいいのだ。
時々、純粋な目で「先生の技も見たいです。」「先生、やってみてくださいよ。」と言われることもある。
そんな時には、
「いや、教えるのが仕事だから。」「先生がやってたら、みんなのことを教えられないでしょ?」
と、ごまかしている。子供達は、そんなごまかしを納得してくれて、活動に戻っていく。
これでめでたく、
「先生は、運動が得意なんだ」というイメージが作られる。
もちろん、教師の失敗や不得意を見せることで、子供達の成長を促す方法もある。
「失敗してもいいんだよ」「できるようになる過程が大切だ」
と語ることもできるだろう。
でも、私たちには練習を積み重ねる時間はない。
授業中は、子供達の活動を見守り、指導をし、子供達の技能を高めねばならないからだ。
子供達に「先生も、できるようになったよ!」と言うために、放課後に練習するのは、仕事の優先順位を間違えているのではないか。
もちろん、20代後半あたりからの体力の低下もある。
頑張ればできるようになる身体からは、年齢とともに遠ざかっていくものだ。
だからこそ、そこに頼らない術を身につけておくことが必要だ。
そしてもうひとつ、大切なこと。
それは、「自分ができなくてもいいが、他人(子供)ができるようになる指導はできる」状態にしておくことだ。
子供の動きを見て、「目線をこうしてごらん」「足をこのタイミングで持ち上げるんだよ」などの助言ができたり、必要な補助ができたりするのは、教師として必須である。
それは、勉強していかねばならない。(偉そうに書いておきながら、私自信も、まだ道半ばである。)
教師は、指導者であって、プレイヤーではない。
だから、子供達よりも優れている必要は、必ずしもない。
得意なところだけを見せて、「この先生はすごい!」と思わせる。
それがあるから、指導の説得力も増す。
誰しも、プレイヤーとして下手な人に教わりたいとは思わないからだ。
だからこそ、苦手なところは見せない方が得だ。
したたかに、でも地道に。
指導力を上げていこう。
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